香港というものは、猥雑な闇が蔓延している都市、と思っていた。
すこし昔の人だと「香港に売り飛ばされる」という常套句を耳にしていただろうし(私も)、往年の刑事ドラマ「Gメン75」では定期的に香港マフィアと戦うシリーズが放映されていて、怪しげなカンフーの達人は、皆一様に、闇にまみれた雰囲気を持っていたし。
「深夜特急」で知った重慶マンションや、何かの雑誌で目にした「九龍城」、そこで夜な夜な行われていたという薬物売買、賭博、違法行為はまさに魔窟のイメージそのもので、何度もその中の空気や匂いを想像したもんだ。循環の悪い部屋で不潔なシーツにくるまる夜や、油ギトギトながらも旨い食事。一度迷ったら出てくることができない、という言われも、心惹かれた。
そんな香港を、険しい表情で足早に歩く人というものに、私はなってみたかったのだ。実際に私が訪れた香港は、既に中国返還後で、町にはオシャレなカフェが点在し、九龍城もとっくに取り壊されていた。私は夢を叶えることができなかった。
映画監督の王家衛が、私が想像していた香港の空気そのものをスクリーンの中に映し出してくれて、私はそれを繰り返し観ながら何度も香港を疑似体験した。「恋する楽園」「天使の涙」「ブエノスアイレス」、どれもスタイリッシュでロマンチックな映画でありながらも、私が感じていた「魔窟」の空気がうっすらと感じられる。雑多な部屋と、高温多湿、怪しい職業の男女、アジア独特のエネルギー。現在、この世からは消失してしまったあの香港の濃厚さは、私が旅の中で追いかけるひとつのイメージになったわけです。