たかが世界の終わり。このタイトルは素晴らしくどっきりさせられる。でも、でも、でもね、あらゆるところで見かけるこのコピー「愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて」って、ちょっとこの映画のイメージとは違うと思うんです。すっごく薄っぺらい印象になりませんか? 「愛が終わることに比べたら」っていう比較級いらないし。「たかが世界の終わり」という言葉に内包されている、諦め、空虚感、虚勢、わずかに歯をくいしばっているけど外面からはそんなことわからないような感じ、それらが「愛が終わることに比べたら」がつくだけで、もろもろに崩れてしまうと思うんです。「たかが世界の終わり」。それだけで十分ではありませんか。
さて、映画の中身の話になりますが、この作品を観て思ったのは、監督がもう作る前から完成系が頭の中にあったのだな、ということ。それはものすごいディテールまで微細に、イメージできていたのではないかと。じゃないと、あの音楽の切り込み方とか、画面転換や、空気感は、無理だと思うのです。オープニングの曲がかかるところから、その背景のぼやかし方、色彩、全部が「ガツン」とピンポイントで一番そこにあってほしいところに入ってくる。そういう作品ってなかなかないもんです。
「理解できない、でも愛している、それは誰にも奪えない」というお母さんのセリフがあるのですが、これ深い愛情を簡潔かつ完璧に言い表している言葉だよなと思います。理屈では説明できないことを理屈ではない言葉で語るセリフがちりばめられている作品です。グザヴィエ・ドランという監督の作品は、「私はロランス」で初めて観たのが2年ほど前。映像がシックかつ鮮やかで、話の持って行き方も興味深かったんだけど、ちょっと荒削りであまり残る作品ではなかったです。でも今回のこれはもう、本当に観に行って正解。ちょっとレイトショーでも観にいきたいなーと金曜日の夜に思い立ち、「ララランド」とこれとどちらにしようか迷って、でも「ララランド」はあれだけ話題なのだからこの先どこかで観る機会もあろうと、あえてこちらを選んだら、いやもうツボに入っちゃってしばらくグザヴィエ・ドラン旋風が吹き荒れました。どのくらい吹き荒れたかって、挿入曲である懐かしの「恋のマイアヒ」をプレイリストに入れてリピートしまったくらいです。
いやあ、映画って、本当に良いですね((C)淀川長治)。この監督はまだ28歳。まだ撮影した映画は数本だし、今のうちにコンプリートしておこうと思いまする。