クラクフ3日目。この日は、ポーランド来訪最大の目的を果たす日です。
そう、アウシュビッツへ行くことにしていました。
私がホロコーストを知ったのは、「アンネの日記」でした。姉が読んだ本はほぼ自動的に私も読むようになっていたので、それが読むきっかけだったのですが、少女の文体の日記は、それだけで親近感のわく読み物でした。背景もろくに理解せずに読んでいたと思うのですが、隠れ家で息をひそめるように、外出もせず友達にも会えずという境遇に置かれているアンネを通して、戦争という時代に起きた「酷い事」をぼんやりと知ったのでした。
そのあと、テレビのドキュメンタリーや映画、様々な書物で語られる中、ホロコーストの実態を知りました。こんな酷いことが起こるなんて、なぜなのか、という興味のほうが強かったのが正直なところです。
アウシュビッツの巡回展も観に行き、いつかポーランドに行くことがあったら、ぜひその地を訪れて、この目でしっかり見てきたいと、ずっと思っていたのでした。そしてその時が、やっときたのです。
いろいろ調べていると、アウシュビッツには、日本人のガイドさんが一人だけいるということがわかり、ぜひその方に解説していただきたいと思いました。それと、できればプライベートガイドがいいなと思っていました。そしたら、その条件をともに満たす予約サイトを見つけたので、迷わず申し込み。実はこの旅行の中で最も高い料金になったのですが、それでも構いません。ここは最もじっくり観たいところなのだから!
アウシュビッツ見学ツアーのパッケージには、近くに位置するヴィエリチカ岩塩坑のツアーも含まれるものがありました。ここも世界遺産です。正直それほど強い興味は持っていなかったのですが、せっかくなのでこちらも一緒に申し込むことに。丸一日かけて、2つの場所をまわることになります。
さて、朝食を終えてレセプションに降りると、一階のソファで日本人女性が本を読んでいました。この方が、今日1日私たちを案内してくれるMさんでした。アウシュビッツのガイドさんとは別に、岩塩坑とホテル送迎に付き添ってくださる方です。至れり尽くせり、こんな丁寧なツアーに参加することはめったにありません。Mさんは、ボーランドで留学生活を送ったあと、日本カフェを作る仕事を依頼され、そのまま会社をつくってポーランドに残ったとのことです。生活をしているなら当たり前かもしれませんが、ポーランド人のドライバーさんと、ポーランド語でずっと話している様は、すでに我々から見れば異邦人。こうして外国で、そこで暮らしている日本人やその国の人と話すと、月並みな言い方ですが「様々な人生が、ある」ということを実感します。寒い国暑い国、不安定な国、平和な国。それぞれの国で、ごはんを食べて働いて、生きている人がいるってことを、当たり前のことなのだけれど、そうなんだなあと思うわけです。それは、私にとっては、目の前の視界がちょっと広くなり、ちょっと空気が澄んでいくような感覚です。どれだけ普段、閉塞感がある生き方をしているんだって感じです。自分次第ではあるのですが、だからこそ、私にとって旅は重要度が高いと言えます。
Mさんとともに、まずはヴィエリチカ岩塩坑へと向かいます。
ここは13世紀から1996年まで稼働していた岩塩の採掘坑で、もともと国営企業だったそうです。天井も壁も床も塩の坑道を歩いて見学するのですが、現地ガイドさんが「ここにある塩は自由になめて構いません。その塩代はあなたがたの払った入場料に含まれていますから」なんて言ってます。
塩でできた洞窟の中には、教会や、伝説を表す人形たちや、あらゆるものが塩で掘られています。岩塩を掘るためにやってきた人の中でも、こういう彫刻が上手な人はそれ専門要員になったそうです。
岩塩坑はそれはそれで行ってよかったのですが、正直ふーんという印象でした。あまりにも整備されすぎちゃっているからか、テーマパークに来たような気分で。ガイドさんもシステムもしっかりして、観光地としては申し分ないです。うーん、でも正直、限りあるポーランドでの滞在中の時間は、ここに費やさなくてもよかったかな。まあこれも、行ったからわかったことではあります。
さて、ここを出たらいよいよ今回のポーランド滞在の最大の目的である、アウシュビッツ訪問です。
車で小一時間また移動しますが、車窓の風景がだんだん街から離れ、畑の中におとぎ話に出てくるような家が建っています。道端の木々も、日本にあるそれとは随分違って。車窓の風景をずっと眺めていたら、オシフィエンチムという駅が見えてきました。ドイツ語でアウシュビッツという名前で呼ばれていますが、ここの正式名称はオシフィエンチムです。まったくの、のどかな駅でした。
そしてそこからすぐに、現在はユネスコの負の世界遺産に指定されている、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に到着です。
ここの周囲には、ホテルやレストランもあります。ホテルの親父さんが、「泊まってくか?」と勧誘に来たりしました。ここの前に泊まるっていうのはどうなんだろうか。ともあれ、ガイドさんの予約にはまだ時間があったので、Mさんも交えて、レストランで食事をすることにしました。メニューはポーランド料理。ジュレックというすっぱいスープや、ビゴズという煮込みを教えてもらっていただきました。周囲はフランス人やロシア人の団体客が多かったです。
そして食事を終えたら、アウシュビッツに向かいます。
アウシュビッツに観光地気分で行くのはどうか? 写真をばしゃばしゃ撮るのはどうか? いろいろな葛藤は私にもありました。しかし、私がこういう時に思い出すのが、チベット問題に興味を持ったときに、歴史学者の先生の講演を聞きにいったのですが、そのとき先生が言われた言葉を大切にしています。何もできないからと言って目を背けることはしないでほしい、興味を持つこと、そしてそれを語ることが、どれだけ重要なことか。まずは興味を持ってほしい、そして人に伝えて言ってほしい。先生の言葉は、悲惨な状況や歴史に「興味」を持つことが、どれだけ前向きなことであるかを教えてくれました。
なので私は、様々な問題に対して、堂々と興味を持って、知らないことを自覚して、少しずつ知っていこうと思うわけです。
入口にると、受付と売店があります。売店では、案内所が売っていました。日本語のもありました。もちろん翻訳・執筆は、唯一の日本人ガイド、Nさんによるものでした。そのNさんと対面です。写真では何度かお見かけしていたのですが、実際のNさんの第一印象は、とても美しい目をしていたことです。団体で案内を受けるのではなく、姉と二人でNさんのお話を聞けるという幸運。Nさんのお話は、歴史や展示についての解説にとどまらず、現代の日本や世界に起こっていることとの対比や警告、たとえば日本で勃発しているヘイトスピーチに関連させたり、知識としてだけではなく、実感として捉えられるものでした。
かの有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のゲートがあります。この「B」の文字が逆転しているのは、収容者の抵抗の一つという話を聞いたことがありましたが、Nさん曰く、当時このような逆字にするデザインもあったので一概に抵抗とは言い切れないそうです。
ゲートをくぐり、歩き進むと、絞首刑が行われた台座、鉄条網に囲われた道、映画では何度も見た風景が、そこにそのままありました。
展示室に入ると、ヨーロッパ中で行われたホロコーストの犠牲者数、その内訳はユダヤ人だけではなくロマや同性愛者などが含まれ、それぞれ胸につけるマークや色で区別されていたこと、収容者のカバンの山には自分のものがあとでわかるように名前を書かされていて、髪の毛、髪の毛でつくられた織物、メガネ、琺瑯の食器、ニベアの缶。ありとあらゆる生活用品が、ものすごいものすごい山になって展示されています。これらの持ち主はもちろん処刑された方々です。
そして中庭には、処刑場として使われた壁があり、たくさんの花とイスラエルの国旗が掲げてありました。処刑場の片側の建物には窓があり、もう片側には窓がないので、その理由を聞くと、もう先がない人が入っている棟にはその銃声が聞こえても良いが、政治犯など外部に漏れる可能性が少しでもある人のほうには見られない・聞かれないように窓がない状態にしていたそうです。
来訪者にもいろいろなタイプがありました。大きな花を抱えたご家族、団体客の中には自撮り棒を持っている人がいたり。私はあまり写真を撮る気分になれず、Nさんに時々質問をしたりして言葉少なく歩きました。建物の中の奥には、拷問部屋があったり、復元されたガス室があったり。そして所長のルドルフ・ヘスの家がすぐそばにあったことが衝撃的でした。実はルドルフ・ヘスの手記を読んだことがあり、すぐ近くにあったとは知っていたのですが、本当にガス室のある場所から見えそうなくらいの距離感で、えっこれほどまで?! と思うほどでした。ガス室の煙が見えるところで、家族と暮らしていたわけです。
(その後、ヘスの孫がアウシュビッツを訪れてイスラエルの学生と対話するドキュメンタリーを観ました。政治や状況に巻き込まれたとはいえ、行いといえものは、その子々孫々まで負い目や影響を残してしまうわけです)
アウシュビッツの展示を見終え、ビルケナウに移動しました。こちらは広大な敷地の収容所に、引き込み線が敷かれ、ハンガリーなどからユダヤ人か送られてきたそのままの景色が残っています。列車を降りたらガス室と収容室へと選別された場所、爆破されたまま残されているガス室とクレマトリウム(焼却炉)、死体を捨てていた池、もう人間のやることではないですよねとNさん。収容施設はレンガの建物だけが残されています。木造のものは資源として壊されてしまったとのこと。広い広い収容施設の中に、傾いた夕日が射し、冬の澄んだ空気の中でそれは美しい景色でした。「夜と霧」にも何度か出てくた夕景です。こんな美しい場所で、なんていうことが行われたのか。
最後に見張り台に登って、何枚か写真を撮りました。この景色を忘れないように、この時の気持ちを忘れないようにしようと心に強く思いました。私たち日本人は、やっぱり長いものに巻かれがちな民族性を持っていて、いつ何時あちら側に立ってしまっているかわかりません。強くはない気持ちを持っていることを自覚して、ここにきたことを忘れないようにしようと思いました。
ビルケナウをでたところで、Nさんとはお別れです。迎えにきてくれたMさんは、私たちがここにいる間、少し離れたところでやっていた展示を見ていたそうです。それは、収容所で何度か起こった放棄行動のひとつ、女性収容者が武器を作らされた際に、ほんの少しずつ火薬を爪の中に入れて持ち帰り、その火薬を集めて男性にこっそり渡して武装放棄したとのこと。もちろん鎮圧され全員殺されてしまったそうですが、そのエピソードは、のちに観た映画「サウルの息子」にも出てきました。クロード・ランズマンの映画にもいくつか出てきた、「我々は羊のように殺されるのを待っていたわけではない」という言葉が思い出されます。
Mさんと再び、クラクフの街に帰ってきました。心も体もクタクタで、旧市街広場のそばにあるカフェでお茶をしてゆっくりしました。明るく、心地よいカフェの中で、平和を噛み締めて、ああでも行ってよかったと思い1日を終えました。